数学では「無限」をたくさん扱います。自然数(1,2,3,…)は無限個あります。整数(0,±1,±2,…)も、有理数(整数/整数の形の数)も、実数(√2、πなども含む。虚数単位iのついてない数のこと)も無限個あります。しかし、同じ「無限個」の中にも段階があることを18世紀末、ドイツの数学者ゲオルク・カントールが示し、そのときから数学の集合論が始まりました。それによると例えば自然数、整数、有理数は同程度の無限で、実数はそれよりも「多い」無限です。同じ無限個なのにヘンじゃないか、と思いますよね。でも仕方ないのです。
事実かどうか分かりませんが、豊臣秀吉は山の木の本数を調べるよう命じられたとき、短い縄をたくさん持って行って1本の木に縄を1本ずつ足軽に結ばせ、残った縄の数をもとの数から引いたのだそうです。「木1本←→縄1本」と対応しているから縄と木の本数は同じなのだ、というのは誰でも納得できる理屈でしょう。何がどうなってもこれは正しい理屈だと考えられますよね。そこで、自然数と整数に対して同じことを実行します。
と対応させるのです。これはさっきの理屈からすると「自然数と整数は同じ個数だけある」ということを意味します。これを数学では「自然数全体の集合と整数全体の集合は濃度が等しい」と表現します。さらに実は有理数全体の集合も自然数全体の集合と同じ濃度です。分数だから自然数などよりもはるかにたくさんあるような気がしますが(1と2の間には4/3とか6/5とか、無数の有理数がある!)、同じくらいしかないのです。しかしカントールは実数全体の集合は自然数全体の集合よりも濃度が大きいことを示しました(実数の方が、自然数よりもたくさんある無限だ、ということ)。さらにカントールはどんな無限集合に対しても、それより濃度の大きい無限集合がある(カントールの定理)ことをも示したのです。無限には無数の段階があり、自然数の個数よりも多い無限、もっと多い無限、さらに多い無限、……というようにいくらでもある、ということです。今では大学の数学科の学生は普通に勉強していますし、この辺までなら高校生でも理解できます。しかし革新的な内容で、当時の数学者たちは納得できなかったようです。
さて、ぼくたちは数学でいろんな議論をするとき、平気で「この実数をxとおく」とかやっています。ある意味、これは結構危ないのです。例えば「sin 47°」でひとつの実数が定まりますよね。ちゃんとした値は分かりませんが、定まることに間違いはありません。あるいは「2乗して3になる数のうち正のもの」で√3という実数がはっきり定まります。しかし実は実数のほとんどはこんなふうにきちんと表現できないのです。日本語と数式で上のようにきちんと定義できる実数は自然数と同程度しかないことがすぐ示せます(自然数全体の集合と、きちんと定義できる実数全体の集合は濃度が等しい)。つまりぼくたちは定義もできない実数を平気で扱っているのです。
この話はもっと詳しく次の本に載っています。前にも紹介しました。
この話(集合の濃度)は『逆説論理学』にも矢野健太郎先生のエッセイなどにも載っており、高校生のときワクワクしながら読んだものです。大学2年の「現代数学入門」という講義で集合論の初歩を教わり、その中で今回紹介した話が出てきました。授業ではそれより先まで教わり「おお、あのときのあの話はこういう風に続くんだ……」と興味深かったです。よいものです、この感じ!! 勉強の楽しみ方のひとつだと思います。つまり、啓蒙書や易しい入門書で理論の概要や紹介を読んで、あとできちんと勉強したときに「おお、あのときのあれがこうなるのか……」としみじみ思う……と。本を読まないとこの楽しみは分かりません。ぼくが高校生に啓蒙書を薦める大きな理由はこれなのです。