いぬおさんのおもしろ数学実験室

おいしい紅茶でも飲みながら数学、物理、工学、プログラミング、そして読書を楽しみましょう

「勉強しないならば怒られる」の対偶は何か

 割と有名な話らしいです。ぼくは石谷茂先生の本で読んだ記憶があります。面白いので紹介しましょう。

 「勉強しないならば怒られる」は「pならばq」の形で、条件文です。これ自体は真だと考えられます。……というか、そう考えておきましょう。もとの条件文とその対偶の真偽は一致するはずですから、対偶「怒られないならば勉強する」は真、ということになります。何だか変な感じですよね。勉強嫌いの学生の言い訳みたいな……。もとの主張はもっともな気がするのに、対偶はどこかおかしい。どういうことなのでしょうか。

 解決法は対偶を「怒られていないならば勉強している」と表現し直すことです。これならまあまあ、なるほど、真と言っていいですよね。自然です。そもそも最初の条件文の真偽を考える際に、仮定と結論の間の時間の経過(あるいは因果関係)を想定してしまっています(条件文「pならばq」で、pを仮定、qを結論と言う)。勉強していない子どもを親が見て「いい加減に勉強しなさい!」と怒っている様子を想像しているのです。同じ感じで対偶を「怒られないなら勉強する」と事実の間の因果関係のように捉えるとおかしなことになります。時間の経過を考えないように場面を思い浮かべましょう。勉強していない子どもがいます。親が近くにいて、怒っています。そもそも条件文「pならばq」はpが真であればqも真であるときに真、と約束されていますから「勉強していないならば怒られる」は真です(「勉強していない」も「怒られる」も真!)。そう思って対偶の真偽を考えます。もとの条件文が真のとき、「怒られていない」という状況なら、じゃあ「勉強している」はずですよね、となるのです。普通に書くなら「怒られていないならば勉強している」ということです。

 カリキュラムによりますが、コロナ騒ぎもあって高校1年は今、ようやく命題の辺りを勉強しているかも知れません。楽しいところです。