知識偏重の入試が見直され、「試験では思考力があるか見る。知識のあるなしではない」みたいな感じになってきています。そうすると「ネットで検索すればすぐ分かるのだから、知識に価値はない」という主張が何だか正しいような気もしてきます。実際、そういうことを堂々と言う学校の先生もいます。考えることが大事、考えさせる授業が素晴らしい、生徒のグループで議論させるのがよい、……。そうして「議論」をさせて、教員から見て分かりきっていることを生徒に気づかせるのです! 永遠の命と無制限の資産があればそれでもよろしい。でも実際には違うのですから、ぼくはモタモタとそんなことをやっているのではなく、基本的な事実をさっさと教えるべき……と思います。
ぼくはプログラミング、最近はゲームを書くのが趣味で、「××したいけれど、どうしたらいいだろう?」ということがたくさんあります。いちいちテキストを調べたり、ネットで検索したりすれば時間はかかるけれど何とかなるのは確かです。じゃあ、そういった知識を頭に入れることに意味はないのか……というと、とんでもありません。慣れると目的を達成するコードを書き上げるまでの時間は短くなります。これは繰り返しによって知識が頭に入ることはもちろんですが、その上で知識の間の有機的なつながりが頭の中にできあがるからです。××をしたい。ああ、それにはあそこで▲▲をして■■を作っておき、それとは別に●●をしておいて、それらを……のように考えることができるようになるわけです。単純に「知識はネットで手に入るのだから憶えておく必要はない」というわけにいかないのは明かです。
それだけではありません。小学校、中学校と「生徒のグループで議論」を繰り返してきた生徒たちはもう「授業中は静かに先生の話を聞く」という常識を持っていなくても不思議ではなく、これでは授業になどなりません。前、授業崩壊の話を書きました。
記事にした(授業崩壊の)クラスは、何年か「グループで(だらしなく)議論」することを繰り返してきてしまったのではないか……と想像します。勉強が好きでない生徒は大勢います。そういう生徒にとって、先生の話を静かに聞くのは苦痛でしょう。しかしそうして無理矢理にでも憶えなければいけないことはたくさんあるはずです。知識はもちろん、「いやなことでも場合によっては我慢する」という、生きていく上で大事な技術もそうです。彼らはそういう勉強の機会を逃してしまっているということになります。
人前で発表する自信がついた……などという生徒のコメントを喜ぶ教員もいるかも知れません。しかし時間もかかって難しいのは知識を頭に入れ、それを縦横に使うためのトレーニングです。喜んでいる人には悪いけれど、発表など……練習すればすぐできるようになります。