いぬおさんのおもしろ数学実験室

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良問、よい問題とは何か

 入試問題の分析などで「これはよい問題」などと評されていることがあります。共通テストの自転車の問題でも「よい問題」とコメントしているのを見たことがあります。この自転車の問題については前、ブログで記事にしています。

www.omoshiro-suugaku.com

ぼくはこの類いの問題は入試ではやめた方がいいと思っているので、支持する意見があることは少し意外でした。

 前、同僚だった先生が「『良問』なんて、自分が解けた問題をそう呼んでいるだけ」と言っていました。極端な意見かも知れませんが、案外いいところを突いている気がします。「良問」に厳格な定義はありません。だから、自分が解けた問題を「良問」であるということにしておけば「これは良問だ。そして自分はこれを解けた」となって自慢することができるかも知れません。真実、そういうことならずいぶん安っぽいプライドだと思いますが……。

 「文科省が推進している×××に沿った問題で、良問だ」などというのも信頼できません。例えば、教育の技術の話ではないけれどつい最近、教員の免許更新制が廃止されましたが、素晴らしかったはず(?)の更新制がアッという間に、ですよ。詰め込みはダメなのでゆとり教育がいいと思ったんでしょ? どうなったんですか? どんな計画も、当時十分に議論されて「素晴らしい、これで行こう!」ということになったのでしょう(……と信じたい……)。しかし、実はそうした会議の中で発言力のある人みたいなのが推したためそうなっただけなのかも知れません。それにそもそも教育など成功、失敗の要因は無数で複雑に絡み合っていて「こうすれば完璧」などということはほとんどないでしょう。そうしたこともあり、ぼくは「どこかの(有名な、あるいは優秀そうな人たちの)団体が推進していて、教育界では流行である」なんて話は眉唾だと考えています。もちろん、共通テストもぼくにとっては同じです。「新しい考え方に沿って作られた良問である」と言いたいのでしょうが、そんなのは全く当てにならないのです。「いや、共通テストは素晴らしいのだ!」という人はいるのでしょう(だからこういう制度が採用されたんですよね)。でも5年経って「いやー、あれはまずかった」ということにならない保証などありません。

 最初に近いことは書きましたが、教員が「×××は良い問題だ」と言うとき、「自分には『この問題が良い問題である』と理解する能力がある」という主張が含まれていることがあると思います。だからそういうセリフをよく聞くのかも知れません。でも「良問」の定義が曖昧だからどうとでも言えるのも確かです。迂闊には信じないことです。

 じゃあ、良い問題とは何か。「A君、B君が……」など妙な場面設定は不要です。数学なら、数学をこの先勉強していくのに必要な知識や技術があるかどうかを判断できる問題が良い問題なのだと思います。自分で専門書を読み進めるのに必要な知識、技術があるか。自転車の設定など意味がありません。誰かにつきっきりで教えてもらえるわけではありませんから、自分で勉強を進められるかどうかが最も大事です。専門書では式変形が省略されていたり、直観的な意味を捉えにくかったりなど、日常茶飯事です。要するに行間を自分で埋めなければなりません。それが必ず必要になるのです。それには(自転車の設定を問題から読み取るのではなくて)周辺の基礎的な事実を自分のものにしておくことだと思います。……と言うか、それしかありません。

 今、ぼくはパターン認識の本を読んでいますが、やはり行間を自分で埋めています。その過程が勉強だとも言えるでしょう。そして、この勉強を支えているのはぼくが過去に勉強してきた周辺の知識、技術です。どんな分野でも、勉強している人はそういう実感を持っていると思います。流行を追うのもいいですが、この最も基本的で当たり前の事実を忘れてはいけません。