いぬおさんのおもしろ数学実験室

おいしい紅茶でも飲みながら数学、物理、工学、プログラミング、そして読書を楽しみましょう

本当に「答えの出ない問題が大事」、「生徒同士の対話が大事」なのか

 ちゃんと議論するなら、ここで言う「答えの出ない問題」とはどんなものなのか、「生徒の対話」とは何なのかきちんと定義した上で……というのが正しい姿勢でしょう。しかし堅苦しいのでそれはやめましょう。何となく、でヨシ!!
 共通テストでも、何かの問題やできごとがあり、それに対する太郎君の考え方に疑問を持つ花子さんが現れて太郎君と議論を始める……みたいなのがありますよね。流行りですか? 出題に関わっている皆さんは「××先生の作問がスバラシイ!」とか褒めているんでしょうか。問題にアプローチする方法は1通りではない、議論するのは大事だ、……。
 日本の名門高校の◎◎高等学校ではこういう教育がされている、外国の有名な大学では理系だから数学や理科だけやっていればよいというわけではなく、哲学や芸術も充実している、……という感じの本が結構たくさんあって、ぼくは割と好きなので何冊か読んでいます。今読んでいるのはこれ。

こうした本の共通点のひとつは、その学校の教育、授業や試験は「解答を記憶しておけば点が取れるという作りにはなっていない」のような主張をしていることだと思います。共通テストもこういう流れの中で作成されているのかも知れません。もちろん「太郎君と花子さんの議論にすればよい」とだけ考えているならくだらないと思います。特に、単にいろんな情報を混ぜて問題をゴチャゴチャにしているだけならさらに意味などないですし。
 このブログの記事も、全体として「単に問題の解き方を記憶しておけばよい」みたいな考え方は否定している……感じです。また実際、ぼくはそう考えています。しかし特に最近の世の中のこの極端な雰囲気はもう嫌になっています。本当に、「猫も杓子も」という感じで「答えはひとつでない!」、「生徒同士が対話するのが大事!」ばっかり。こんなの、徹底的に基礎をたたき込んでいる学生、生徒、そして教員が少しだけ主張するからこそ重みがあるのではないでしょうか……。
 ここで言う基礎とは何か。曖昧な言葉ですし、難しいですが高校生で言うなら「大学で勉強を続けるのに要する知識や技術」くらいの感じです。大学生なら「先の専門書を読める実力」か。「基礎」なのであって、それさえ身につければもうそれでよい、というわけではないですよ。
 ぼくはここ数ヶ月、大学1,2年程度の数学や物理を集中して勉強しています。高校の教員なので生徒にも還元できると思いますし、結果をまとめておく意義はあると考えています。使っている本はマセマのテキスト、演習書が多いです。何回か紹介しているとおり、大変分かりやすいです。他にもよい本はあるので読みますが。ちなみに……こうしたテキストには太郎君も花子さんも出てきません。重積分で体積を求める、divやgradの演算子で物理現象を記述する、そういう内容ばかりです。ぼくはこの辺が「基礎」なのではないか、と考えます。
 そういう「基礎」のない学生が議論ばかりしたってたいした意味などないでしょう。ろくに知識のない者同士が何を話したところで大事な結論など出るはずがないのです。悪いけれど教員だって同じこと。自身がしっかり勉強した上で、生徒同士の対話で何を引き出せるのか慎重に検討したときのみ、「生徒に対話させる」ことに意味があるのではないでしょうか。何でもかんでも対話が大事!……ではお話になりません。そんなこと(「対話させる」とか)に時間を使うなら、自分がもっとちゃんと勉強した方が生徒にはありがたいはずです。ぼくが生徒だったら、そういう先生に教わりたいです。


 先に紹介した「よい学校」の教育ですが、徹底的に基礎をたたき込むことと並行して、ほんの少しだけ基礎ではない部分を実行できるのだと思います(実際にそうしているのだと思います)。ぼくが気に入らないのは基礎の大切さに考えが至らず、「生徒が議論するのがよい教育だ!」みたいに思い込んでそちらばかりを広めようとする雰囲気と、「おお、それはスバラシイ!」と鵜呑みにしていそうな先生たちです。