いぬおさんのおもしろ数学実験室

おいしい紅茶でも飲みながら数学、物理、工学、プログラミング、そして読書を楽しみましょう

「受験指導」は正しいのか?

 いわゆる「受験テクニック」というものがあります。例えば現代文。評論文では、前半のブロックと後半のブロックが必ず「しかし」でつながっており、……だからここを読んで××すればそれが答えになる。適当ですが、こんな感じ。実際、受験問題などそんなものなのかも知れません。しかし、こんなことを高校の教員が説明したって仕方ないと思います。ぼくが高校生だったら、せっかく現代文を教わるなら現代文の楽しさ、先生がどんなものを読んできたのか、どこがどうよかったのか、この小説で作者はこう言ってるけれどそれは作者のどんな経験がどう影響しているのか、そんなことを教えて欲しいです。そして、先生が考える、若い頃に読んでおくべき代表的な小説、本なども積極的に紹介して欲しい。「こうすれば答えが出る」みたいな、入試では一瞬役に立つかも知れませんがそんな薄っぺらな知識を詰め込まれたってうれしくも何ともないのです。そんなもの、自分で参考書でも読めばいいこと。現代文の良さ、楽しさ、素晴らしさ、味わい方、読み方、……を教えて欲しい、ってことです。「受験テクニック」だけでは底が浅すぎです。
 どうもここ数年で「高校生の勉強の仕方が誤っているのでは………?」と思うようになりました。生徒は自然科学、その他、世の中のいろんな事実(たくさんあります。大変な事実、悲しい事実、不思議な事実、楽しい事実、……)にあまり興味を持っていません。本を読まない生徒が多いのです。興味が少しでもあるなら本を読まないわけがありません。興味さえ持てれば本屋さんにはそれに関する本は山のようにあります。こうした「××は不思議だ」「なぜそんなことが?」「どういう仕組みなんだろう?」とか、追求してゆく姿勢がもしあれば、学校の勉強に対する考え方、姿勢だって自然に変わるはずです。
 知的な興味がないのに、いくら補習をしようが受験指導しようが、ぼくはそんなもの、中身のない空っぽな努力に終わると思っています。それをやれば何%か(あるいはもっと)は結果は出るかも知れないけれど、見せかけだけです。補習を丁寧にやってもらえるうちはまだいい。でも自分で興味を持つ、追求する、勉強する、そういう姿勢がないなら、補習で教わった知識が役に立たなくなればもう生徒には何も残りません。いきなりゼロです。授業を速くして受験指導しようがどうしようが同じです。「こういう問題はこう解くのだ」と教えてもらうことが数学だと勘違いしてしまっているなら、数学など分かるはずがありません。
 教員の側もそういうつもりで教えなければいけないんじゃないかと思います。つまり、現代文の話で書いたようなことが大事なのであって、補習がどうとか、受験に対応しなければとか、そんなことではないということ。そして実力は正しい勉強をすればつく。そうした勉強が本物なんだ、ということです。